三菱製紙 統合報告書2023
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イントロダクション6創業まもないころの高砂工場高砂工場1号コーター/大正7年三菱とウォルシュ兄弟神戸製紙所から三菱製紙へ 近代化が進む中、洋紙需要が急増し、ウォルシュ兄弟は木綿ボロのパルプ工場を神戸に建設した。日露戦争から第一次世界大戦にかけて洋紙需要は更に増し、神戸から高砂工場へ移転、中川工場を新設した。ボロ・藁から木材へとパルプ原料を転換し、上等紙生産を拡大した。アート紙について、特に高いシェアを獲得していた。京都試製工場(現京都工場)/昭和19年中川工場試験室/戦後原料統制下での製品多様化特殊紙・印画紙への進出 写真印画紙用原紙(バライタ紙)は戦争に伴い輸入が困難となり、国産化が望まれていた。高砂工場でバライタ紙の開発に成功し、続いて中川工場で生産を進め、京都写真工業㈱(現京都工場)と合併した。 印画紙は当社を代表する特殊紙となり、戦後に開発された印画紙「月光V」も好評を博し、京都工場の礎となった。本社を兵庫県高砂市から東京都千代田区有楽町に移転 高砂工場でバライタ紙の研究が完成 京都写真工業㈱と合併。写真印画紙に対する京都試製工場(現京都工場) 印画紙「月光V」(青黒調)を発売八戸工場1号抄紙機試運転/昭和42年各種情報用紙パルプから紙までの一貫体制の確立情報用紙の急激な需要増 激しい市況変化に対応するには徹底したコストダウンは必須であり、パルプ・紙の一貫大量生産が可能な八戸工場を新設し、北上工場では国内材を100%活用したパルプ工場としての足場を固めた。 高砂工場は、ファクシミリ、ワープロなどの情報通信機器の進展とともに情報用紙の製造工場へと変化していった。⃝1898年神戸市三宮においてウォルシュ氏兄弟が経営していた製紙会社を岩崎久弥が譲り受け、合資会社神戸製紙所を設立⃝1901年神戸市三宮から、兵庫県高砂市に工場を移転(現高砂工場) ⃝1917年東京都葛飾区に中川工場を新設(2003年3月閉鎖) 組織を株式会社に変更、社名を三菱製紙株式会社と改称⃝1925年⃝1935年⃝1944年⃝1950年⃝1965年三菱カラー印画紙販売⃝1966年八戸工場を新設 白河パルプ工業㈱と合併。白河工場(現在の白河事業所)および北上工場 ⃝1974年簡易製版印刷システム「三菱シルバーマスター」販売 創業〜1920年代近代洋紙製造業の勃興1930年〜1950年代戦時下での変容と戦後復興1960年〜1970年代激しい景気変動と情報通信の拡がり■ 三菱製紙グループ価値創造のあゆみ

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